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商品内容
紙ジャケ(デジタルリマスター・完全生産限定版)
1.また明日
2.ひとかけらの夏
3.MY CREW
4.Showdown
5.ボーイズ・ライフ
6.LOVERS LOGIC(PIPER名義)
以下は紙ジャケではない
7.REAL COLLECTION 1982-1984
8.Best Live Perfomance of MOON Tracks
9.BEST TRACKS ON THE MOON
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些細な気がかりな点、ご不明な点はご質問ください。
ご質問無き場合の事後対応は一切致しかねます。十分ご留意下さい。
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土曜日曜祝日は原則発送していません。
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参考
村田 和人(むらた かずひと、1954年1月2日- 2016年2月22日)は、日本のシンガーソングライター、作曲家、編曲家。元専門校東京ミュージック&メディアアーツ尚美講師。
来歴・人物
デビュー前
東京都品川区出身。中学時代にビートルズ来日のTV放送を見てカルチャーショックを受け、その翌日にエレキギターを購入。その後、ローリング・ストーンズにも大きな影響を受け、クリーム、レッド・ツェッペリン等のブリティッシュ・ハードロックを聴くようになる。同時にバンド活動も開始するが、中学3年時にはベーシストが見つからず、村田が自ら担当していた。村田曰く「二十歳くらいまではいろんなバンドでベースを弾いていた」とのこと。
獨協大学入学後の1977年にバンド「ALMOND ROCCA」を結成し、本格的なバンド活動を行うようになる。バンドは1978年のEastWest地区大会でグランプリを獲得するなど高い評価を受ける。YAMAHAの自主制作盤『エピキュラス・フレンズ・コンサートライブ』に後のレパートリー曲となる「電話しても」「GREYHOUND BOOGIE」が収録され、そのデモテープを入手したフリーのプロデューサーがソングライティングとボーカルを高く評価し村田に接触。しかし当時の村田は完全な洋楽指向で、邦楽は山下達郎とはっぴいえんどしか聴いておらず「あなたじゃ駄目、僕らをプロデュースできるのは山下達郎ぐらいかな」と大口を叩き断るが、そのプロデューサーが偶然にも山下と知り合いだったため、後日、山下に直接デモテープを渡すことができた。デビューへの道を模索する中、村田が山下との間にプロデューサーを入れることに納得いかず、かといって直接依頼したかった山下の電話番号も聞いていなかったため、連絡が取れないままデビューの話は立ち消えになった。しかし、デモテープを聴いた山下は村田を高く評価しており、「もし、このシンガーが世に出なかったら「電話しても」を自分で歌おう」と思ったほど惚れ込んだという。
デビューの話が立ち消えになったため、大学卒業を節目としてバンド・ALMOND ROCCAを解散し、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ)に営業マンとして入社。サラリーマンとして働きながらALMOND ROCCAを再結成し、精力的にライブ活動を行う。ライブを見に来ていたRVCのディレクターに評価され、再びデビューの話が持ち上がる。RVC内にあるAIRレーベルに所属していた山下と再会。村田を評価していた彼の後押しもあり、プロデビューが決定。
1981年、会社を退職しデビュー・アルバムのレコーディングに入る。山下によるプロデュースを期待していた村田だったが、音楽性や声質から「山下が村田を手がけたら、両者が似すぎてしまうのでは」というスタッフの危惧から、編曲は鈴木茂と井上鑑に委ねられた(鈴木はアルバム『LAGOON』を気に入っていた村田の、井上はスタッフサイドの要望だった)。レコーディングが進む中、制作途中のテイクを聴いた山下から直接村田に連絡があり、編曲のやり直しを進言。結果、「電話しても」を含む数曲が山下の編曲で録り直された。アルバム制作中にMOON RECORDS設立の話が立ち上がり、第一弾アーティストとして村田と松下誠がラインナップされたため、一旦レコーディングを中断してデビューのタイミングを調整。レコーディング開始から1年後の1982年4月、シングル「電話しても」でデビュー、同年6月に1stアルバム『また明日』がリリースされた。
デビュー後 - MOON時代
1stアルバムのプロモーション終了後、山下のツアーにコーラスとして参加。山下からかなりしごかれ、現場での多くの音楽的経験を積んでいった。ツアーで村田が一番参ったのは、他の女性コーラス陣と合わせての「踊り」だったという。
1983年、マクセルからの依頼で「一本の音楽」というコピーを使用するという条件で制作された先行シングル「一本の音楽」がスマッシュヒット。CMの露出が多かったこともあり、6月に発売された山下プロデュースによる2ndアルバム『ひとかけらの夏』は好セールスを記録、ライブもコンサートホールで行う事ができるようになった。数多くのライブ活動を行う中で、山本圭右、阿部薫、小板橋博司、小室哲哉のバンドメンバーで「村田サウンド」を確立していった。
翌1984年にTM NETWORKでデビューする小室を除くメンバーで3rdアルバム『MY CREW』を製作。前作での山下の下でのプロデュース経験を生かした、村田の初セルフプロデュース作となった。アルバム発売に伴い、全国主要5都市を含む全国ツアーも行われた。
翌1985年は再登板の予定だった山下が諸事情(自身の音楽制作へのコンピュータ導入による試行錯誤など)により制作に着手できず、村田も収録予定だった楽曲を他のアーティストに提供する等、ちぐはぐな活動となってしまい、結局アルバム制作は流れてしまった。
1986年に新しいディレクターの手引きで渡米、ロニー・フォスターの下で『showdown』を制作。ロニーをはじめとするLAのスタジオ・ミュージシャンを起用した本作は、これまでの作品にはないアーバンなテイストを盛り込んだ意欲作となった。
1987年に再渡米。ロサンゼルスでベーシックトラックを制作、日本でダビング及びボーカルを録音する形で制作された『Boy's Life』はこれまでの村田の音楽活動の集大成というべき作品となった。