昭和13年6月26日(1938年。 85年前の6月26日)、 「不敗の名人」と謳われた第21世 本因坊ほんいんぼう ・ 秀哉しゅうさい (64歳)の引退碁が、「 紅葉館こうようかん 」(「東京タワー」の場所にあった会員制の高級料亭。尾崎紅葉の名はここから)で打ち始められました。
挑戦者は、 木谷 實きたに・みのる 七段(29歳)。この対局は、「東京日日新聞」が企画し、家元制の最後の本因坊に、リーグ戦を勝ち抜いてきた若手精鋭が挑戦するという、“権威” 対 “実力”の構図を持っていました。
秀哉が「不敗の名人」たり得たのは、当時「名人」と呼ばれるようになると、その名に傷がつかないよう「勝負碁」が避けられたからのようです。秀哉がこの10年で打った碁は2局しかなく、その2局とも途中で秀哉が病に倒れるといったアクシデントがあり、結果としては秀哉が勝ちましたが、病に伏している最中、他の棋士からの入れ知恵があったのではとの噂もありました。そんなこともあったので、秀哉はこの引退碁で、“実力者”と正々堂々と戦い、自身の実力を見せようとしたのでしょう。
持ち時間はそれぞれが40時間という前例のない長さでした(普通は大きな対局でも2日で打ち切り、一日8時間で計16時間がそれぞれの持ち時間。8時間労働の考え方に基づく)。かつては棋士が思うがままに時間を費やして次の一手を考えていましたが、大正時代末頃から持ち時間制が導入されます。時間の制約の中で戦ってこなかった秀哉に配慮して40時間という長時間が設定されましたが、心臓に持病があった秀哉には、この長時間の持ち時間が文字通り“命取り”となります(対局後1年ほどした昭和15年1月18日死去)。
また、公平性を考え、この対局で初めて「封じ手」が行われました。これまでは上手うわてが都合のいい頃合いに下手したて に打たせてその日の対局を終え、次に打つ日も上手が決めており、上手に大きな有利がありました。上手は次の対局日まで次の一手を存分に考えることができるし、人に入れ知恵される可能性も生じます。そこで、その日の最後の一手を相手に知られないよう紙に書いて封筒に入れて封し、署名して、金庫に保管、次の対局が始まると同時に封が切られ、その一手が相手に明らかになるというやり方(「封じ手」)が採用されました。秀哉の引退碁は、こういった公平性が担保された中で行われ、真の実力者は誰かという関心の中で行われたのです。
1日目は、昭和13年6月26日芝「紅葉館」で黒一から白二(封じ手)までの2手で形だけのもの(。次の日(6月27日)も「紅葉館」で黒三から黒十一(封じ手)まで打たれました。3日目は14日後(7月11日)に箱根の奈良屋旅館で打たれました。以後、秀哉が持病の心臓病悪化のため聖路加病院に入院するまでここで打たれます。6日目(箱根での4日目。7月26日)に木谷七段からの痛烈な一手(黒六十九)があってから秀哉も長考するようになりました。秀哉の3ヶ月の入院のあと、場所を伊豆の「 暖香園だんこうえん 」(静岡県伊東市竹の内一丁目3-6 に移し、12月4日に終局。秀哉の5目負けでした。二百三十七手までうち継がれましたが、秀哉の白百三十が失着で、以後はほぼ黒の勝の流れてなっていたようです。